その中で、ずっと感じていること。例えば資格試験に合格したい!とか、海外留学を控えている、、、などの具体的な目標が目の前にあるのではなく、ばくぜんと「なんとなく英語ができるようになりたい」という層がとっても多い。実際レッスンを受けてみようと一歩を踏み出す人の外周にも潜在的に「英語ができるようになりたい」はかなり分厚い層になっていることだろう。こどもを英語教室に送り出している親御さんもこの層に含まれる。
この「なんとなく」を自覚している人とそうでない人が渾然一体としているのよね。
実際、テレビCMじゃあないけれど、「英語なんて誰でもできる」。ただ、かなり意識的に取り組む必要は、ある。それも熱心に。それは「多読」も含めて。(英語多読が画期的なのは、はまってしまえば、知らない間に「熱心に」取り組める点。)ところがこの「なんとなく」の層には、熱心に取り組む前段階としての強烈な動機付けがうすいことが多い。モンダイは、この「なんとなく」の気分がかもしだしているもの。ここがはっきりしたら、動機付けに変化するのかも?しないのかも?
で、この「なんとなく」の気持ちに、どう切り込むべきかどうか?が、私としては、ちょっと悩ましい。
なんだかねー、精神分析(?)か、カウンセリングみたいになっちゃうんですよ。ちょっとつきつめようとすると。例えば「日常会話ができるようになりたい」という言葉は、発する人によって全く意味が違うから。
それをあくまでも「英語のレッスン」という名目のもとにすすめていくのですが、実はこの「カウンセリング」にも似たプロセスが、とっても大事みたいです。
そんなわけで、今日の大人の方のレッスンで読んでいる本、”There is a boy in girls's bathroom"は、とっても示唆に富んでいます。
ストーリーは、小5のブラッドリーくんと彼を見守るスクールカウンセラーのカーラのやりとりが骨子。そこに枝葉として小学生同士の人間関係のトラブルなども描かれていてかなり重層的な作り。
ブラッドリーは、かなりの問題児。宿題はしない、担任には反抗的。学校中の嫌われ者。そんな彼の気もちをカーラがどうやってほぐしていくのか?が読み応えのある部分。
今日読んだ章などは、圧巻でした。自分で自分をもてあましているブラッドリーの口から出たあるエピソードを利用して、カーラはそのエピソードをブラッドリーの「物語」に言い換えていく。もちろん、直接的に「これは、キミの話だよ」とは絶対に言わないで。だかこそ、ブラッドリーは、カーラの言葉に素直に耳を傾けていくことができ、「自分と向き合う」というつらい作業を、それと気づくことなくすすめていくことができる。
これが、実にお見事。 マニュアルではないのです。ポイントはカーラが真摯にブラッドリーの「心の言葉」をみごとに聞き取っているところかなあ。それから「どうして、宿題をしないの?どうして、先生の言うことを聞かないの?」などとは、絶対に尋ねない点。
読めば読むほど、発見のある一冊。
There's A Boy in the Girl's Bathroom | |
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夕ごはん
ホタテときのこ、ター菜のオイスター炒め
ゆでアスパラ
らっきょうの甘酢漬け
冷奴
納豆
あげとせりのみそしる
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