2007-08-30

「下流志向ー学ばない子どもたち、働かない若者たち」



今日は、本の話。内田樹「下流志向ー学ばない子どもたち、働かない若者たち」講談社

週2、3回の小さい英語教室でも、子どもたちと接していると、「あれ?」と思うことが時々ある。以前に読んだ絵本を取り出すと、「あ!その本、好きだ!」と喜ぶ子と、「それ、もう見た」と、すっぱり斬り捨てる子。繰り返し、いろいろなことをインプットするのがBBカードの手法なのだけど、「あ、ハート?なら、やらない。」と、「自己決定」する子。よくあることなのだろうし、その原因が、この本にすべて書いてあるわけでは、ない。

だけど、いろいろ腑に落ちる点があった。

本書によると、子どもを取り巻く環境の激変で、子どもは、学齢に達する前に、「消費者」として世の中に関わるようになった。そのため、「学校での学び」も「消費活動」のひとつである。「消費者」とは、あらかじめ自分が買うものが何であるか、自分で判断して、買うか買わないかを決める主体のこと。それで、学校での学びも「買う価値がない」と本人が判断したら「買わない」つまり「学ばなくてもいい」。これが、「学ばない子ども」の出現である。

本来的に、「学ぶ」とは、「お金」と等価交換できるものではなく、時間をかけて、学んだあとに、その価値が後からわかるもの。だから、「何のために、これを勉強するのか?」という問いは、ラジカルでも何でもなくって、「ばかもの!それをわかるようになるために、勉強するのじゃ!」というお師匠さんの「喝!」で退けられるべきもの。そこら辺の根幹が揺らいでいる。

「学ばない子ども」の行方は、官民挙げての「自己決定、自己責任論」で、浮遊する若者に結びつく。だいたい、「自分で考えて、その結果責任は、本人が負う」というのが「自己責任」のはずなのに、それを国策で、こどもたちに押し付けるは、不条理ではないか?よくいわれる「リスク社会」だけれど、「リスク」を負うのは、個人。学ばなかったツケは、個人にめぐってくる。それをそのまま引き受けている。「孤立」しているのだけど、周り中そうだから、それに「?」をつけずに「ま、そんなものか」で浮遊している。

「学び」も「労働」も結果が出るまでの「時間」がかかるもの。その点に関してのインプットがこどもにされていないから、ねじれが生じている。さらに、「リスク社会」というけれど、孤立した個人が「リスク」を負うだけでは、生存の可能性がない。その「リスク回避(リスクヘッジ)」の方策も身につけさせた上で社会に送り出すべき。(この点は、具体的に、持ちつ持たれつの長屋精神が提示されていた)

以上は、本の内容の一部を、私なりに解釈したものです。

著者の議論は、諏訪哲二の「オレ様化するこどもたち」にベースをおいているので、もしかしたら、こちらの本を読んだ方がわかりやすいのかもしれない。また、ところどころ、ちょっとはしょり過ぎの感も否めず。また、著者は、80年代以降この国で盛んになった「フェミニズム」や「自立」精神「個性尊重」に批判的で、どちらかというと旧来の伝統社会への復帰を促しているように思いました。それができたら苦労しないのですが、、、昨今、いきすぎた「個性尊重」から「伝統回帰」の風潮があるけれど、それって、揺り返しだろうか。これも「様々なる意匠」のひとつであり、どちらかに偏るのは、やっぱりキケンかなとも思います。

卑近な話だと、英語教室なんて、わかりやすく「消費活動」なのかな〜と思うと、ちょっとぞっとしました。こどもの顔を思い浮かべると、まだ、そこまでいってないかな?と、楽観的になれますが。


夕ごはん

麻婆春雨
トマト
ぬか漬け
長いもすりおろし
納豆
高野豆腐としそのみそ汁

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